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宗教的ケアとは

宗教家(牧師、僧侶など)が患者さんやご家族と語り合い、心のケアを行います。宗教家と言っても布教活動を目的としているわけではありません。患者さんの中には洗礼を受けられる方もいるようですが、キリスト教徒でなくても、仏教徒でなくても、あるいは宗派が異なっていても、何ら問題なくケアを受けられます。
心のケアをして下さる宗教家の方たちをチャプレンと呼びます。病室などでケアを受けるときには、チャプレンは私服で来ることもあれば、牧師の格好で来ることもあります。チャプレンの格好に希望があれば、遠慮なく言うべきです。
チャプレンは、宗教的な話もすれば、哲学的な話もします。またカウンセリング的な働きもしたり多彩なケアをすることもあります。
ただ、チャプレンの絶対数は大変少なく、鹿児島でも活動されている方は少数です。そのお一人に宗教的ケアの実際を紹介する連載をしていただきましたのでご覧下さい。

坊さん奮闘記1 本願寺派善福寺住職 長倉伯博

 

■わたしのケア活動の原点・・・二つの出来事

「悲しくてせつなくて氷りついてしまった心に、いくら力を加えても砕け散った氷ができるだけ。氷を溶かすのは温もりだ。温もりが伝わることによって心の氷が溶け始める。その時、患者さんやその「家族に笑顔が現われ、冷たく張りつめていた病室の空気が緩んで暖かくなる」
地方寺院の住職を務めながら、要請をいただいて鹿児島県内のいくつかの病棟の緩和医療のチームに参加し始めて十五年になる。宗教家が医療の現場にかかわるということへの期待を裏切るようで恐縮だが、温もりと笑顔は私のケア目標といえるかもしれない。
どうしてこんな考えにたどり着いたかは、途中で少しは明らかにできると思っているので、今回は、私の原点になっている二つの出来事を紹介することでこの連載を始めてみようと思う。

■「坊さんだけは遠慮してくれ」

本願寺派がビハーラ実践活動研究会を開催し、なんとなく応募したのが十七年前。その時、キリスト教のホスピス医や病院チャプレンをしている方々の講義を聞いて胸に火をつけられて自坊に帰った。そのころ、折よく新聞で「鹿児島終末期医療について考える会」の記事を目にして、早速その連絡先に電話して参加したい旨を告げた。職種を問われ、僧侶と答えると、それまで愛想のよかった応対が急に暗くなり、すでに参加している患者さんや家族に尋ねてみるのでしばらく待てとのことだった。
不安な一週間を過ごし、あらためて電話すると、あなたが悪い人とは思わないが、患者さんや家族が坊さんだけはこの会に参加してほしくないというので申し訳ないが速慮してくれ、という。緑起でもないと思われたのだろう。医療と宗教との溝は深い。今となっては医療者との笑い話になっているが、ここから出発したのである。

■「お坊さんに手握ってほしかった」

もうひとつの出来事は、これとは全く正反対の取り返しのつかない私の失敗である。神経難病を扱うある病院の女性の臨床心理士から、病人の相談にのってくれるお坊さんがいると患者さんに話したら、ぜひ会いたいというので出向いてくれとの要請だった。うれしい半面、患者さんの状態を聞くと緊張した。全く身動きはできず、話すこともできない、聞くことのみ可能とのことだった。
私は自分に何ができるかと自問した。それで、知り合いの音楽家たちに頼んでミニコンサートでも企画しようと考えた。手間取っているときに臨床心理士から電話があった。亡くなったという。愕然とした。彼女はことばを続けた。お坊さんに来てもらえなかったね、と最後に話しかけると、涙を流したという。お坊さんに手を握ってほしかったのだと彼女は話して、曇り声で電話を切った。
病棟に出向く際、忘れることのないふたつの出来事である。

連載にあたって・・・

終末期医療の現場で活躍する僧侶の奮闘記―。今日から、長倉伯博(ながくら・のりひろ)浄土真宗本願寺派善福寺住職(51歳)=鹿児島市福山町=の連載が始まります。日本緩和医療学会会員の長倉住職は、地元の鹿児島で医師や看護師らと「かごしま緩和ケア・ネッチワーク」を立ち上げ、医療チームの一員として患者や家族のケアに日々取り組んでいます。
鹿児島大学と滋賀医科大学の非常勤講師もつとめ、医学生に「医師は患者の最後の友人になってほしい」とアドバイスする長倉住職。スタッフの人間関係が鍵になるという緩和ケアの現場をリポートしてもらいます。

坊さん奮闘記2 本願寺派善福寺住職 長倉伯博

 

■安楽死、自殺幇助、嘱託殺人の依頼

今回からは、今までに出会った患者さんや家族、医療者の方々とのお付き合いを古い方から現在に至るまで順に紹介しようと計画していて、この方のことは連載の先の方でと考えていた。しかし、一本の電話で私の気持が高揚してしまった。それで、順番を入れ替えて今回紹介することにした。四月初めのこと、外出先から少し遅めの帰宅で、いつものように留守番電話のメッセージを聞こうとボタンを押した。すると、「合格しました」という声が流れてきた。思わず、もう一度聞き直した。そして、彼の声に間違いないと確認して、受話器をじっと見つめながら、私は九年前の春をしきりに思い出していた。
電話の彼は現在三十五歳になるが、当時は二十六歳。塗料会社の役員をしていた父親の仕事の縁で、塗装工として家族を支えていた。そのころ、彼の父親は五十歳で、十六年にわたるガンの最終段階にあり、その年の六月には臨終を迎えることになる。
それから四年後、その彼が思い立って、まず准看護師の資格を取り、結局五年がかりで正看護師になったというのである。三十歳にもなって、それまでとは全く方向の違う分野の仕事を志し、十歳以上も年の離れた同級生と机を並べ、アルバイトをしながら苦学の果てに成し遂げたというだけでも称賛に値するが、その努力の陰に今は亡き彼の父親の存在が思われてならないし、彼自身の口ぶりからもそんなことがうかがえるのである。
記録では父親の最初の手術は、彼が九歳の時。元気な父の姿はあまり記憶にないという。最初は直腸と大腸のガンだった。その後十六年間に大小二十五回の手術(本人、家族のことば)を受けた。亡くなる前年の暮れには、「春の桜までは無理かもしれない」と告知されたが、三月の末になって、まだ持ちこたえていた。しかし、下肢まひで、疼痛の訴えは強く、そのせいか不眠も続いていた。

■「死なせてくれ、殺して欲しい」

そのころ、大学病院の麻酔医から連絡があった。「患者さんの相談に乗ってくれる坊さんがいると話したら、ぜひ会いたいという。最後は自宅で迎えたいとの本人の希望で、今は在宅ケアチームを組んでいる。少し遠い所だが出かけてくれ」との依頼だった。
その医師に案内されて四月三日が最初の訪問。それから彼の父親との付き合いは六月二十四日午前零時五十三分まで続くことになった。
お互いに紹介がすみ、二人きりにしてもらった。
「あなたに人生最後の頼みがある。お願いだから、死なせてくれ、殺してほしい。自分で死のうとしたが今はその力さえない。一休さんや良寛さんをはじめ、お坊さんは困った人を助けてくれたじゃないか。私を救うと思って手伝ってくれ。ここにどれほど死にたがっているか書いておいた。これがあれば、最悪でも執行猶予ですむだろう」
そう言って、彼は目に涙をためて、一枚の紙を差し出した。今思うと、安楽死、自殺幇助、嘱託殺人の依頼である。

■励ましにあまりに意味のない状況

こういった際に、気弱になるなとか、もっと明るいことを考えろとか、人間はだれもがいつかは死ぬんだからがんばれとかの励ましはあまり意味がないことは、それまでの私のささやかな経験が教えてくれていた。だから、どうして死にたいのか、殺してほしいのか、もう少し話してくれないかと頼んでみた。
彼は胸の内を吐露し始めた。

■聞き続けて変化する関係

「妻は、今日で四日もろくに寝ていない。夜中に気が付くと身体をさすってくれている。今までにも何回もこんなことがあった。私が死んだ後、看病疲れで倒れるのではと思う。もういい加減に妻を楽にしてやりたい。病気になってから十六年もこんな男につき合ってくれて心から感謝している」
「子どもたちもこんな生活のなかでよく成長してくれた。でも、五十歳の親父が、二人の子どもの稼いでくるお金で生活しているなんて話がどこにある。それなのに、給料日になると、そっくり妻に渡し、お父さん今日はすきやきでも食べようか、と声をかけてくれる。もう充分です。自分で稼いだお金は自分で使わせてやりたい。お願いです、私を死なせてください」
彼は目に涙をためて、絞り出すように話した。胸が熱くなった私は、彼の手を握り締めたまま、言葉を失った。
「あなたにとって、自分の命より何より大切なご家族なんですね」
しばらくして、私がようやくロを開くと、彼はうなずきながら涙を溢れさせた。そして、こんな辛い話を聞いてくれてありがとう、という。

■何を語るかという前に共感し受け容れる努力を・・・

私は、その時彼の表情の変化に気がついた。最初に比べると、とても穏やかになっている。聞く内容はとても辛いが、話し続けるうちに楽になった様子がうかがえる。
実はベッドサイドにいると、こういう経験をすることがある。死なせてくれ、という言葉に直接答えることは難しいが、心を傾けて聞き続けることで、相手と私の関係が変化するのだと受け止めている。辛い話が心の中から言葉として表に現われるとき、それは信頼の扉が開きかけた証左といってもいいだろう。
宗教者の臨床活動も、このことが前提になって初めて可能になる。何を語るかという前に、共感し受け容れる方にこそ努力を傾けることが求められている。人生の意味や生死の問題などのスピリチュアルな問いは、その後に顕在化してくることが多い。
最初の面談から一ヶ月ほどして、長いこと親の命日にお参りしていないから、お経を読んでくれという。医師や看護師に手伝ってもらい、車椅子で移して仏間に連れていった。お経が終わると、その中にはどんなことが書かれてあるかと問うた。私は、お経の成立から話し、倶会一処、極楽浄土でまた会えるよ、私も必ず往くから、というようなことを話した。
「本当をいうと、お坊さんにもっと早く会っておけばよがったと後悔していたけど、また会えるんだ、良かった、この世では短いけど、長い付き合いができるんだな」
彼が手を合わせると、そこに居合わせた医療チームも静かに手を合わせた。それから、一カ月ほどして、いよいよ臨終の日がきた。医師からの知らせで、間に合わないと思いながら、車を急がせた。着いてみると、瞳孔は開いて意識はないという。手には不規則なけいれんがあった。その手を握り締め、今着いたよ、と叫んだ。あらためて瞳孔を確認した医師が、驚いて意識が戻っているという。家族がそれぞれに、父観への感謝を告げた。言葉を発することはできないが、目尻から涙が一筋流れた。そして笑顔が浮かんだ。
医師が臨終を告げた。誰からともなく、拍手がわいた。見渡すと皆涙を流していた。

坊さん奮闘記3 本願寺派善福寺住職 長倉伯博

 

■お坊さんに聞いて欲しかった

今回は私が最初に出会った五十八歳の患者さんとその奥様のことである。十五年前のある日、突然に電話をもらった。
「患者さんの相談に乗ってくれる坊さんがいるが、会ってみないかと話したら、ぜひ会いたいといううちの病院に来てくれないか」
ビハーラ活動を始めて間もないころで、ある寺の門徒さんが院長や看護部長である病院とか、私の個人的な知人の紹介であったりとか、そんな小さなつてを手がかりにして、宗教が医療に参加する意義を訴えるため、時間を見つけては県内各地をパンフレット片手に訪問していたので、とにかくうれしい要望だった。喜んで返事した。
「近々伺います」
近々じゃ困るんだ。今日か、明日。でないと話ができなくなる恐れがある。おそらくあと一週間ぐらいしか持たない状態なんだ」
気楽に構えていた私は、思わず緊張した。
そして約束通り翌日伺った。受付で来院の意味を告げると、すぐに主治医である院長室に案内してくれたが、他の医師や看護師が訝しんでいることは視線でわかった。看護師長、担当看護師を交えて、これまでの経過と現在の状健を確認した。この二年間に三回手術をし、その度に退院できたので、今回も本人は手術を希望していたが、とても無理な状況だ。人柄を考えると、嘘をついたまま臨終を迎えさせることには抵抗がある。だから、無理な手術は避けて、最後の時間を大切に過ごしてほしいと本人と奥さんに話した。正直に教えてくれたことには感謝しているが、何か悩んでいるようだから僧侶である貴方のことを紹介したら、ぜひ会いたい、というので来てもらうことになった、とこれまでの経過を話してくれた。
病室で最初は互いのことを紹介しあったが、途で意を決したように彼は話し出した。
「私は地獄に往きます。住かなければならないのです。お坊さんに来てもったのは、死んでから極楽に往きたいとか、安らかに死にたいと思っているのではないのです」
「では、どうして私を選んだのですか」
「人をいっぱい傷つけて生きてきた私の人生を誰かに話しておきたかった。身勝手かもしれないが、お坊さんが一番ふさわしいと思ったのです」

■最期の病床に人生語り、話し終え柔和な表情に

彼は目に涙をためて、若い時からの人生を、時折詰まりながら話した。
私は、相づちを打ちながら、彼の表情に注目した。話し始めは緊張していたが、そのうちに赤みが差し柔和になっていくのに気付いた。話し終えると、「こんなばかな男の人生を聞いてくれてありがとう、よかった」と手を差し出した。
私も手を握り返し、お役に立ててよかった、と応じた。そのあと、「他にお辛いことはないですか」とたずねると、しばらく考えてベッドの脇でずっと沈黙していた妻に目を遣り、「こいつの神経痛が心配です。私が死んだ時、子どももいない妻が一人で神経痛を抱えて生きていくと思うと申し訳なくて」と言う。しばらく、うつむいていた妻が、「私、あなたと一緒になってよかった」と叫ぶように言って夫の膝に身を投げ出した。私は、二人をそのままにして静かに病室を出て、経過を医師に報告した。その時涙ぐんでいた医師は、後に僧侶が参加した症例として医師会報に載せてくれた。

■当初は「坊さん」に抵抗感

前回の患者さんをみとってひと月たたないうちに、同じ病院から、また依頼があった。出かけてみると、病院の応対が前とはずいぶんと違って、病棟の医師や看護師がにこやかに迎えてくれた。一週間たったころ、顔見知りになった若い看護師さんに、その理由をこっそりたずねてみた。すると、彼女は言いにくそうにしながら、次のように話してくれた
院長から、坊さんに来てもらうことにした、患者さんの了承は取ってある、と朝の打ち合わせで聞いたとき、一同あぜんとした。確かに、前日、手術は不可能、予後はそう長くはないと時間をかけて告知したことは知っていた。しかし、いくら患者さんが落ち込んだからといって、医療者としては素人の坊さんを呼ぶことはないだろう、というのがみんなの雰囲気だった。だって、坊さんといったら訳の分かない説教をするか、テレビに出てくる霊能者のようなことをするのだろうから、もし患者さんの容体が悪化したときはどうするつもりだろうと不安だった。私だけでなく、みんな怪しんでいたのだという。  
それがどうして変わったの、とさらにたずねると、いかめしい顔で来るかと思ったら、にこにこ笑って、普通の格好で来たことにまず驚いたという。そして、病院の症例研究会で経過が報告され、患者さんと奥さんのこと聞いたときには感動してしまった。それで、今回は院長からではなく、みんなの声で来てもらうことになったと話してくれた。
もちろん、うれしい反応であったが、一方ではプレッシャーにもなった。うまくいったから歓迎する、もしそうでなかったら来るな、変化がないなら来なくてもいいということでもあるからだ。評価の尺度は私の方には全くなくて、医療の側にあった。この時期の病棟の私の迎え方は、どこでもおおよそこのようなもので、それはしばらくの間続いた。
今は、少し違っている。

■今はケアチームの一員に

ターミナルケアは、全人的痛み(身体的、精神的、社会的、スピリチュアルな痛み)に対応するという性格から、個人プレーではなくて、宗教家やボランティアを含む多職種がチームとして機能することが要請される。僧侶もチームの一人としての自覚が必要となり、患者さん、家族を含む「いのちの共同体」に参加するのだと現在の私は考えているし、医療の側もそのつもりで迎えているようである。

■相互に学び医療側に変化

実際、ベットサイドでは期待されるほどにうまくいかないことも多いが、それは患者さんの容体や気分に左右されることもあるし、表面化しない悩みを抱えている場合もあるし、またもちろん私のコミュニケーションの取り方に起因することもある。ただ、そうした時でも病棟の症例研究会で検討し、相互批判も交えながら、患者さんとその家族に少しでも人生最期の良い時間を過ごしてもらえるように皆で努力している。
だかう今は、うまくいかなくてもすぐに来るなとはならない。ただ、そうなるまでには、しばらく時間が必異だった。医療者も私自身も、ターミナルケア、緩和ケア、ホスピスケアについて学ばねばならないことがまだまだ多くあった。そのために、全職種、もちろん宗教者も参加した「鹿児島緩和ネットワーク」を医療者たちと立ち上げることになったが、それはだいぶ先のことである。
この病院ではたった二例だったが、その後医療機関からの招きが増え、同時に、症例に対し真剣に学ぶ医療者とともに歩みたくなった少し本気の私がそこにいたのである。

■本人の悩みの整理から出発

僧侶が病棟に出かけるというと、患者さんやご家族に仏教的な考え方を紹介するとか、法話などをしていると思っている方も多いだろう。確かに、聞く準備ができていて、それを期待している方がいるのも事実である。しかし、私の経験からすると、そんな方はごく少数に思える。
実際は、WHOのいう全人的な痛み(身体的、精神的、社会的、スピリチュアルな痛み)が複雑に絡み合って、患者さん本人も、ご家族も、医療者も葛藤している状態の中で訪問する場合が多い。そこでは、問題は一つではなく、病気が原因になって多くの悩みを抱え込んでいるという形容のほうが適切である。
だから、最初の面談の際に、「今、一番辛いことや困っていることは何んですか」と尋ねることが多い。そして、「その次にお辛いことは?」と言うふうに会話を続ける。これは、私が知りたいという以上に、本人の心の中で悩みの優先順位を考えてほしいからである。つまり、問題の整理から出発するのである。すると、医療に対する不安や不信であったり、家族関係の問題であったり、仕事に対する悩みであったり、そのほか様々な問題が浮かび上がってくる。
僧侶が出向くのだから、生死の問題だけだと考えるのは早計である。一つ一つ、具体的、個別的な会話を重ねながら、その上で、いわゆるスピリチュアルな痛みが訴られることの方が多い。
六十三歳の男性患者さんを紹介する。この方は余命一ヶ月と診断されていたが、結果的に四カ月お付き合いした。若いときに妻と二人で会社を起こし、県内有数の会社に育て上げた社会的には成功者であり、そういう人らしくごうほう豪放らいらく磊落な性格の方だった。数回、病室訪問をするうちに、「若ボンさん、若ボンさん」と私のことを呼び、訪問を楽しみにするようになってくださった。看護師長が、「あなたのことを気にいったと言い出したから近いうちね」と話してから、間もなく心の内を吐露し始めた。
まず、幼いとき、里子に出された辛い思い出話だった。兄弟の中でなぜ自分だけ出されたのか、小学枚の帰り道に実家がみえる山の上から、貧しい暮らしながら実母にまとわりつく兄弟たちのはしゃぐ声を聞いて、近くのお寺の縁側でひとしきり泣いてから、養子先に帰った、という。実母にも孝養は尽くしたつもりだが今も複雑な思いだと、笑うなよと照れながら涙ぐんで話した。そして、私を見て、ボンさんが泣いたらシャレにならんぞと笑った。この日から私たちの距離はだいぶ縮まったのである。

■具体的、個別的会話重ねて

それから数週間して、ある日会社のことを話題にした。それは、大変誇らしげであった。しかし、最後にあと三年命が欲しいと叫んだ。息子たちは技術の面は大丈夫だ、だが経営をまだ知らない、それを教えていないと唇を噛んで話した。
亡くなる二ヵ月程前に、一度危機的な状態があった。医師たちの努力で脱したが、この日を境に少し変化があった。妻に、お前と本当に夫婦らしくなったのは入院してからかもしれんな、今まで仕事仕事できたからなあ、としみじみいう。妻が、一日一日大事にしましょうね、と応じると素直に頷いた。

■精一杯の笑顔で握手

亡くなる前の日、危篤という病棟からの連絡で深夜駆けつけると。「死ぬとはどういうことかなあ」。少し間を置いて「世話になったな、先に往って待ってるぞ、あんたのこの仕事は大事な仕事だぞ、身体に気を付けるんだぞ」と途切れ途切れに話しながら、にっこり笑った。私も精一杯の笑顔で手を握り返した。妻が横で泣いていた。

坊さん奮闘記4 本願寺派善福寺住職 長倉伯博

 

■患者家族のケアも大切

病棟に出入りするようになって、患者さんの家族もケアの対象であるということにあらためて気付かされた。病の当事者である患者さんの問題がクローズアップされやすいが、たんに介護者としての補助的役割を期待される存在としてだけの家族像ではなく、身内に病人を抱えてさまざまに葛藤している家族には、WHOのいう精神的、社会的、スピリチュアルな痛みが現われる。
看病疲れとは身体的問題だけではなくて、内面的にも追い込まれている状況を指し示している。従って、医療チームには、家族に対して患者さんとの接し方の助言だけではなく、家族の全人的痛みにも向き合う態度が求められる。
しかし、医師や看護師は、今でも多忙をきわめていて、心では思っていても実際には時間が取れない。このことは、彼らのバーンアウト(燃え尽き症候群)の原因の一つにもなっているのが現状である。そこで、その役目は臨床心理士やカウンセラーや医療ソーシャルワーカーの仕事になるが、一部の緩和ケア病棟を除いて、すべての病院に配置されているかというとそうでもない。それどころか、配置されていたとしてもあまりに少人数で、患者さん本人に対するだけでもオーバーワークになっている。実際、宗教家(チャプレン)として要請を受けて出向いてみると、どちらかというとソーシャルワークであったりすることも多い。このような医療現場では、患者さんのご家族の悩みを把握して誠実に向き合う時間がなかなか取れないのである。
だからといって、何もしないのではない。三十八歳で臨終を迎えた女性患者の例を見てみよう。二ヶ月ほどのおつきあいであったが、最初の面談で残してゆく家族への思いを訴えて号泣し、看護師さん共々もらい泣きしながら聞いた。そして、翌日から患者さんの依頼で家族ケアを行うことをチームで確認した。

■内面的な痛みにどう向き合うか

まず、夫との面談では、「私は奇跡を信じたい。しかし、今後のことや特に妻なき後の子どもたちの将来についても話しておきたいが、そうなるとどうしても死を話題にすることになるので、妻がショックを受けるのではと不安があって、とてもできそうもない。」と涙ながらに話した。
中学三年生の長女には、患者さんの希望で、母親の厳しい病状を丁寧に伝えた。その夜自宅に帰って、一晩中膝を抱えて泣いていたという。この子はその後母親の介護に励んでくれた。ただ、病棟としては、バーンアウトに注意することを申し合わせた。それは、なくなられる十日ほど前に起こったが、チームの支えで何とか乗り切ることができた。小学二年の二女は、なくなる二週間ほど前に、父親に「人は死んだらどうなるの」とたずねた。深夜、辛かったと父親から電話があった。母親がどこにもいなくなるという不安を訴えたのである。
五歳の長男は、お母さんが長いこと入院で寂しいね、といわれると、「ぼく、叔しくないよ」と答える。しかし、朝、保育園に出かけるとき、祖母に「ぼくの枕洗ったらだめだよ」という。彼は、母親の枕で寝ているのである。
このように家族の痛みが現われる。そして、家族は闘病中だけの苦悩ではなくて、死後も妻、母のいない人生を歩まねばならない。家族ケアが必要なのである。

■悲嘆ケアは僧侶本来の役目

今回はグリーフケアについて考えてみたい。
グリーフケアとは悲嘆ケアのことである。大別して、間もなく訪れるであろう臨終を予期せざるを得ない患者さんと、その家族のさまざまな苦悩に対して行なわれる予期悲嘆ケアと、亡くなられて後の家族が喪失の痛みを抱えて生きることへの援助として行なわれる悲嘆ケアがある。
その内容や具体的な援助の方法は、緩和医療関係の書物に紹介されているので、そちらを参照していただくこととして、ここでは、医療と宗教との連携という視点から少し考えてみたい。
まず、予期悲嘆ケアは臨終を迎えるまでのことだから、当然病院の中のケアである。ただし、緩和ケア病棟を除いて、治療中心の病院では意識的に行われているとは言い難いのが現状であろう。
しかし、医師や看護師との雑談の折にはしばしば話題になるので、無意識のうちに対応してはいると思われるが、ケアの要素にはなっていない。そこでは、受容的に傾聴することや自分の価値観を相手に押しつけない態度は当然のこととして、患者さんやご家族の問いを待ったうえで、死を話題にできる力や、自分自身の死生観をある程度日常的に考えておくことが必要であるが、現在の医療事情ではそんな余裕はあまりない。
したがって、予期悲嘆ケアを意識する病棟は、僧侶に対してこうしたケアの役割を期待することになるが、そうした施設も参加する僧侶の数も少ない。心ある医療者だけで、しかも個人的に行われている状況である。
こうして臨終を迎えた患者さんや家族は、病院から自宅や葬儀社に送り出され、それぞれの宗派で通夜、葬式、中陰などの仏事、法事が営まれることになる。そこで、ほとんどの家族は初めて仏教に触れることになる。その際、僧侶のことばに励まされた。などのうれしい感想をたまには耳にするが、多くが儀礼的になされていると言っても言い過ぎにはならないだろう。
最近では、宗教者の介在しない葬儀も増えているといわれる。現代人の宗教心の無さを嘆くよりも、宗教不信の現われと僧侶の側が反省すべきことである。だからこそ、喪失の痛みを学び、家族に寄り添い、ゆるやかな再出発を援助するグリーフケアも僧侶の本来の役目のひとつといえるのではないだろうか。

■死後届いたハガキが家族をケア

「いつもいっしょにいるよ」と、生前の夫によって書かれたハガキを肌身離さず持っている奥さんがいる。死後一ヶ月たって、病棟の看護師から送られてきたものだ。何よりも励みになっているという。これなどは僧侶の仕事に思えてならない。
グリーフケアではないが、最近の葬儀で、四十九歳の父親を見送った高校二年の息子さんの弔辞を聞く機会があった。幼い頃の父親とのエピソードを、彼は号泣しながら遺影に語りかけた。そして、最後にこう叫んだ。
「俺たち、住職さんからいつも聞いていたよね。お父さん、仏さんになったら、みんなを助ける人になるんだよね。忙しいだろうけど、仕事好きだったから大丈夫だよね。お父さん、そっちでがんばれよ。俺もこっちでがんばるからさ。また会おうね、ありがとう」
父親の生前、法事のたびに病棟での経験を話してくれと依頼してきた家族であった。

■僧侶は生前に、医療者は死後に関わりを

患者さんと家族の生前のプロセスを僧侶が学び、そして死後の家族の心の軌跡を医療者が学ぶことを通して、死の一点でバトンタッチする寂しい関係から、相互に協働する温かい連携が生まれると思っている。

坊さん奮闘記5 本願寺派善福寺住職 長倉伯博

 

■入院で自ら患者体験

今回は私自身が患者になった話である。
実は、入院は六月ごろの検査で決まっていたが、主治医が二週間ぐらい必要だというので延び延びにして、十月半ばにようやく患者になったという次第である。
以前、院内研修の講師をしたり、実際にケアチームに参加したこともある病院で、顔なじみのスタッフも多いが、今度は足を踏み入れたことのない循環器科への入棟だった。
実際、パジャマ姿になってみると、自分自身の気持も、病院の光景もいつもとは異なるとはよく医療者の間で話されているが、本当にそうだと思う。トータルペインとはよく言ったもので、いろいろなことが胸をよぎる経験を私自身も家族もすることになった。
その一方で、私自身と他の患者さんとの関係にも変化が起こった。かねてから医療側の人間と見られているが、今度は同病相憐れむ仲間となった。

■同室の仲間らと交流

私の病室は四人部屋で、二人の先輩患者がいた。入院初日、何かにつけてぎこちない私と妻に、いろいろとやさしく教えてくれた。
二日目は、これから始まる検査や治療について情報を与えてくれた。三日目になると、お互いの素性を語り合う中で、私の職業を問われた。縁起でもないと思われるのではないかと多少の不安もあったが、思い切って僧侶だと話してみた。
喜んでいいのか悲しんでいいのかわからないが、とてもそうには見えない、明るい坊さんだねと二人は笑ったので安心した。それからは、私たちは多くのことを語り合った。病気のことについても、三人ともつとめて明るく話したが、ことばのはしばしには不安や心配があらわれた。なおさら、明るい話題をさがし合った。

■明るさの中ににじむ不安

四日目の朝、隣の患者さんが、奥さんに電話をかけて来たと言う。そして、隣の坊さんに葬式のことは頼んであるから、心配しなくていいと告げたら驚いていた、と笑った。
私は彼の心中を思った。離島の病院から、冠動脈三本のバイパス手術のために転院してきて、奥さんは、片道十時間船に揺られて通ってくる。数日後、奥さんと会ったが、あら、聞いてた通り坊さんには見えないと笑い、遠い所だけど本当に来てくれますか、という。私は、もちろんと答えて、ただもう少し焼酎でも飲んでからにしようと話した。彼の退院の日、もう飲む場所も決めてある。私の退院の後、手術前後も数回病室を訪れた。彼の退院も間近である。長い付き合いになりそうである。
もう一人の先輩患者は見掛けよりはるかに重症である。十メートルしか歩くことは許されていない。それでも発病までの武勇伝をよく話題にした。そして、最後に必ず、もう二度とできないねと話した。
彼の奥さんは、結婚以来外で働いたことはなかったそうだが、発病後、五十三歳で初めて働きに出たという。毎日、夕方スニーカーで通ってくる。
私の入院五日目、彼と奥さんは医師に呼ばれた。死刑の宣告を受けてくるよ、と病室を後にした。
一時間ほどして、いつもとは違って、だいぶ沈んだ様子で二人は帰ってきた。半年後、大手術ということになったという。年に一例か二例しかない手術で、術後障害が残る確立が高いといわれた。そうなってまで、何のために生きるんだろうねと、彼は力なく笑った。

■会話が励ましになることも

その夜、私と彼は遅くまで話した。私との会話が、その時励ましになったかどうかはわからない。ただ次の日、私のいない時、私の妻に、昨夜は飛び降りて死のうかと思ったが、ご主人と話て、少し明るくなれたよ、と話したそうである。
私の退院の日、二人はエレベーターまで見送りに来てくれた。そして声をそろえて、すぐに帰っておいでと笑った。私も手を振って、必ず会いに来ますと笑って答えた。
約束は守っている。

■沈黙の共有にも大切さ

年末年始のこの時期になると世間は何かにつけてにぎやかである。人の気持も高揚し、私も例にもれず、寺の住職として除夜や元旦の行事に追われる。
そんな折、ふと作業の手を休めて病院で出会った方のことを思う。
ある方は外泊で久しぶりの自宅を楽しんでいる。しかし、症状からすると家族そろっての最後の正月になるかもしれない。ある方は外泊もままならず、病室でこの時期を過ごす。またある家族は、去年は一緒に過ごせたのに、今年はその人のいない正月を迎えている。
世間のにぎやかさは、もう一方の相反するものをも際立たせてしまう。
それも諸行無常だという理はわかるが、心のうちの切なさは如何ともし難いとは、ある患者のことばである。
さて、数年前のこの時期に一本の相談電話を受けたことがある。この電話は、その後の相談活動に大きな示唆を与えてくれることになった。
最初、その電話は無言で始まり、十五ぷん程続いた。その間、何度も呼びかけてみたが応答はない。しかし、耳をすますと息遣いは聞き取れた。いたずらかとも思ったが、その日の私は気分が良かったのかもしれない、待ち続けた。しびれを切らして、申し訳ないが、あと三分したらこちらから切ります、と告げた。その時間が過ぎようとした時、「あなたも我慢強い人ですね」と女性の声がした。「ほめてくださってありがとう」と応じた。
それから、有言の相談が始まった。中身は男女の仲だった。これまでの経緯を話したうえで、「別れたものかどうか迷っている、ぜひ、意見を聞かせてくれ」という。
こんな時、私は私なりの答えを出すことはしない。いくら誠実に答えても、それはあくまで私自身の判断基準によるものにしかならない。

■事実ではなく感情を聞くこと

それでも答えをせまるので、私はこう話した。「話をうかがってみると、あなたにとってその方はとても良い人で、別れるのは辛い。でもこのままでは、いいとも思えない。その両方で心が揺れているのが今の状態ですね」
すると、「本当にそうなんです。わかってくださってありがとう。実は数日前二度と会わないと告げてきたのですが、辛かったのです」という。すでに答えは出ていたのである。
そして、もう一つ相談があるのです、と話し始めた。

■本当に深刻な相談は後から

「私は近々大きな手術を受けます。だいぶ進んだ悪性のものです。二年前、兄がやはり悪性の病気で死にました。私の人生は一体何でしょう。何のために生きているのでしょう」。そういった意味のことを、時折、泣きながら長いこと話し続けた。最後になって、「今泣いています。長いこと無言で、しかもどうでもいい男と女のことを一所懸命に聞いてくれて、私の勝手な恨みにこんなに時間を割いてくれて本当にありがとうございます。うれしかった。この電話の間、私の人生は充実していました」と話した。そして、続けて、「これから晴れた日の病室から夜空を見上げて、一番輝く星があったら、あなただと思っていいですか?」
私は思わず。「星になります」と言ったら、彼女は笑い出した。そして、星になんかならないで、いろんな人の相談に乗ってくださいと電話を切った。
沈黙の時間を共有すること、事実でなく感情に焦点を当てて聞くこと、問題を整理すること、答えのある程度出た手みやげ相談の後、本当の深刻なことが顕在化することなどは、病室でも応用している。
名前を名乗ることもなかったが、あの彼女は今ごろどうしているのだろうか。笑顔を浮かべてくれていると良いが・・・・。

■短いが必要だった五日間

現在、私は自分自身のグリーフワーク(悲しみの作業)の最中である。
暮れも押し迫った十二月十五日、無二の親友K君が脳出血で突然倒れたという知らせを、講演先の長崎で受けた。聞いた時驚きはしたが、それ程深刻には考えず、帰り道の運転中も、回復にはどれほどの時間が必要だろうか、障害が軽ければいいが、などと思っていた。
鹿児島に着くと、真っすぐ彼の病室に駆け込んだ。そこには、機械につながれた彼と、四人の沈み込んだ学業途中の子どもたちの姿があった。
奥さんが、自発呼吸がなくなったと話した。思わず涙が溢れそうになった。
その時、子どもの一人が、「お父さん、長倉さんが来てくれたよ」と呼びかけた。彼を凝視していた私は、はっとして、彼に大声で話しかけた。そして、酔っぱらって寝ているときと同じ顔だな、と言うと子どもたちが目には涙を溜めていたが、声を上げて笑った。私は、自分の役割を自覚した。彼の愛する家族を私なりに支えること、それが私の彼に対する看病だと思った。
しばらくして、主治医から説明があるというので、家族の依頼で一緒に聞いた。懇切な説明だった。しかし、精いっぱいのことはするが、希望は持てないとのことだった。私はあえてたずねた。「先生のご経験で、この状態から回復した患者はいますか」。医者は首を振って、ない、と答えて、文献では見たことがありますが、と付け加えた。私たちは、大きな絶望と針の穴より小さい希望を感じた。

■無二の親友の心停止まで

それから五日後、私は所用先から帰るのを待っていたように、着いて間もなく彼の心臓が停止した。今にして思えば、家族や周りにいる者たちが事態を受け容れるための、短いが必要な五日間だった。
その間、家族や私たち友人は、彼も黙って聞いているかのように、べットサイドで若いときの武勇伝などを話した。時折笑い声を上げるので、とうとう看護師に注意された。救急の病棟で不謹慎と思われたらしい。私たちは、ごめんなさいと全員で謝った後、それがおかしくてまた笑った。
だれも悲しくない者なんかいない。誰か一人が泣き出せばみんな泣き叫んでしまうことはお互いに分かっていた。泣くのはもっと後でいいと耐えていた。私たちは話しながら、あらためて彼とのつながりの深さを確かめていた。自然に回想療法と予期悲嘆の相互ケアとをしていたのである。
彼の葬儀は、身内と友人たちでしめやかに営んだ。一週間後、彼は眼科の医院を開いていたので、医院と友人たちとの共催で偲ぶ会を企画した。その際、追悼の冊子を作った。ここに抽文を転載することを許していただきたい。
「降りしきる雪の中で君の葬儀の二日後、所用で機上の人となりました。うって変わって晴れ渡った空の下、雪の霧島山系が眼下に見えた途端、僕の記憶は一気に三十六年前のあの日に戻りました。そう、高校一年の晩夏、君とN君と僕との三人で、無謀と言われても仕方のない、それでいて気持だけはいっぱしの登山家気取りで歩いたあの日のことです。疲れ果ててしまった僕たちは下山もならず、山の鞍部で野営する羽目になり、何度もテントを吹き飛ばされそうになりながら、不安を打ち消そうとするかのように、大声で歌ったあの時から、絆が強くなったのでした。それから、いろんなことがありました。あのN君が二十六歳で突然命を終え、今度はこんなにも早く君が。僕はあの山でおいてけぼりをくわされた気分です。
窓からもう一度見下ろすと確かに見えたのです。あの時の疲れ果てた顔ではない君とN君が笑顔で手を振り、そして確かな足取りで雪の上に足跡を残しながら歩く姿が。
いつになるかわからないが、お土産を持って君達の足跡を必ず追いかけるよ。そしたら又あの時のように歌おう。待っていてくれ」

■思いの言語化で胸少し落ち着く

彼が死んで一ヶ月余り、私はまだ時折涙ぐむ。しばらくは続くのだろう。しかし、思いを言語化することで少し胸が落ち着く。彼が最後に残してくれたものは、これからの病棟に出かける僧侶としての私の人生に大きく影響を与えることになるだろう。

■無財の七施も時にありがた迷惑

ある日「心が病気でひねくれてしまったんだろうか」と私に問いかけた肝ガンの患者さんがいた。どうしたんですか、とたずねると「あんたは無財の七施って知ってるか」と言いながら、紙に書かれたものを見せてくれた。
そこには、眼施(あたたかい眼差し)、和顔悦色施(にこやかな表情)、言辞施(やさしい言語)、身施(精いっぱいのおこない)、心施(いつくしみ深いこころ)、床座施(人にあたたかい席を)、房舎施(気持よく迎えるこころがけ)とあった。
「お医者さんも看護師さんも、見舞いに来てくれる人たちもこんな気持で来てくれてるのは重々分かっているけれど、とれてるから、文句も言えないし、なお辛い。今日は愚痴だと思って聞いてほしい」と言う。

■本当に患者の側に立っているか

「まず、眼施っていうけど、おれと目を合わせる前に肝臓の辺りを見ているような気がする。ガンをあたたかい目で見てくれてもあんまりうれしくないよ」
「和顔悦色っていうけど、おれが深刻なことを言うと、そんなこと考えるなと怒るか、作り笑いを浮かべるかのどちらかだよ」。私はドキッっとした。ぼくもそうですが、と恐る恐るたずねると「当の本人に向かって言うわけないだろう、あんたは脳天気だよ」と大笑いしたのでほっとしたが、内心複雑だった。続けて「ただでさえ暗いところにもう一つ暗いものを持ってくるのは勘弁してほしいよ」。今度は真顔になった。
「言辞施だってそうだよ。見舞いに来た人は、病気の話しかしないんだよ。同じこと、何度も言わされるは辛いよ。それに一番おれの嫌なことだもんな」
「次の身施だって、何かしましょうか、と言われたとき、いらないよと言うと相手が悲しそうな顔をするんだよ。あれはたまらないね。だれだって放っといてほしいときもあるだろう」と言う。私は愛想笑いをするしかなかった。すべてに身に覚えがある。
心施についても、やさしさが辛いときもあるという。だれかが来ると知らせがあって、身を起こして待ってると、着いた途端に、寝ていれば良かったのにと言われる。思いやりなんだろうけどね。そういえば、あんたは、起きててくれたんですね、ありがとうと言ったよな。ほんというと、涙が出るくらいうれしかったんだよ。私は胸が熱くなった。
床座施だっていえばうれしいことがあったよ。転院したとき、着いたらすぐに看護師さんが、納豆嫌いなんですってね、ここでは出しませんから安心してくださいって。そこまで知ってくれているんだと思ったら、ここにすべて任せようという気持になったんだよ。それに、坊さんまで呼んでくれるしね、といたずらっぽく笑った。

■耳が痛かった病床からの指摘

最後に、嫌みなことばかりでごめんと言うので、私は、耳の痛いことが多かったけど、いい勉強になりましたと、本当に素直にお礼を言った。
最初に会ったとき、あんたは何があっても逃げませんよ、と言ってくれた。だからなんでも話せたんだ。ああ、さっぱりした。今度は、あんたの説教を聞かせてくれよ。
以来、彼の病室に行くのが楽しみになった。私の思いは今も同じだが、もう病室には彼の姿はない。だが、彼は。私の中に生きている。

■辛く悲しい時が僧侶の出番

最近になって、うぐいすがきれいな声で鳴き出した。
 この連載を始めたころにも鳴いていたから、早いもので一年が過ぎたことになる。
 当初は、この十数年の間に病棟で出会った患者さんやそのご家族、私も含む医療スタッフの様子を気軽に書いてほしいとの編集子の依頼で始めたが、最終稿になってあらためて読み返してみると、期待に答えられたかどうか心許無い。それどころか、私の身の回りにも予想外のことが起こり、それに心を奪われてしまった様子が反映してしまっている。もう少し、計画的に書くべきであったと反省している。
弁解ついでに少し生意気をいうと、なあんだお前のやっていることはこの程度のことか、と感じていただけたら望外の喜びである。しょせん、寺務の合間に出かけているぐらいのことでしかないのはもうお気付きだろう。だったら、病院にいる門徒さんや檀家さんの所に自分も行ってみようかと思い立っていただけたら本当にうれしい。 
そのうえで、グリーフケア(編集注・喪失から生じる悲嘆に対する支援)としての視点がある通夜、葬儀、法事が営まれると、仏教に対する評価はもっと違ったものになると期待している。葬式仏教と揶揄される現実は承知しているが、私は葬式仏教その通りです、と答えることにしている。一番辛くて悲しい時に出かけるのが私の仕事です、とビハーラ活動を通じて考えるようになったのである。

■医療と宗教が自然に手を携える日夢見て

最後に、医療と仏教がどのように協力するのかということに少し触れておきたい。
実際の医療現場の多くがどうやったら治癒できるかというところに重きが置かれていることは否めない。そして、私自身が病棟に出かけるようになってなおさら、多くの医療スタッフはそのための教育を受け、研究し、実践に励んでいることに心から頭が下がるようになった。しかし、患者さんに死が訪れることは考えたくないから、意識の外に遠ざけようとしてしまう。しかし、人間には百パーセント訪れる現実から逃げることはできない。だから、ターミナル期の患者さんに対する心のケアには戸惑うことになる。
そこで、仏教はどう考えるかというと、生老病死を自然なことと受け容れる。忌むべき死さえも、仏になる機縁とし、大いなるいのちの世界に帰る営みと考える。
この両者は、普通に考えれば相反する思想である。実は、臨床的には私はこのままでいいと思っている。なぜなら、正義が二つ主張されると争いになるのは自明のことだが、二つの正義がどうしたら共存できるかと模索するのが仏教ではなかったか。病棟の中で、さまざまにそれぞれの人生観を根底にして議論が行われることこそ、マニュアル化されるより健全な姿に思える。患者さんも家族も医療スタッフも自灯明、法灯明を手がかりに人生の歩みを進めるのだから。

■患者さんとその家族を中心に

私には夢がある。
緩和ケア病棟であろうと、急性期の病棟であろうと、これから進むであろう在宅医療の現場であろうと、患者さんとそのご家族を中心に、医師や看護師、ソーシャルワーカーとともに、僧侶が一緒に、温もりと笑顔の中でお茶を飲みながら語り合う光景が自然になることを夢見ている。
うぐいすがまた鳴いた。ある老婦人から、「うぐいすは何と言って鳴いていると思いますか」と問われたことがある。ホーホケキョですかと答えると、「あれは法を聞けよ、と鳴いているんです。仏法を聞こうとしない私へのお誘いですよ」と話してくれた。以来、私も仏様の呼び声と思っている。倶会一処の皆さまに合掌します。

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